淵に佇みて

その時々の思いを、少しでも言葉で残そうと思います

And the band played on

なんか最近またエイズが流行ってきているなんてネットに書いてありました。もう過去のことだと思っていたのに、ああいった感染症ってのはなかなか根絶が難しいものなんでしょうか。

そこで思い出したのが題に挙げた映画です。

ご存知の方もいるかと思いますが、これは1993年制作のアメリカの映画(正確にはテレビドラマかも)のようです。

日本ではあまり評判にはならなかったようですが、かなりの秀作だと思います。

Amazonで探すと同名で違う書籍なども出てきますので、ご注意を)

 

このフィルム、アメリカにおけるエイズの始まりからエイズウイルスの発見(アメリカとフランスで競い合って、ちょっと話題になった)と、夥しい犠牲者を出してしまった後までを淡々と描いています。

何しろテーマがテーマなのでやや暗めの映画ですが、いろいろと考えさせられるところを含んだ映画だと思います。

 

特に最後に犠牲になった方々(主として有名人ですが)の写真、動画が延々と流れるところには言葉を失います。

コロナもそうですが、現代社会にはまだまだ一歩間違えると悲劇が撒き散らされる脆弱さがあるのだということを痛感させられます。

 

もし興味がおありの方は是非一度ご覧になって下さい。

ラッキーなことに、Youtubeにフルバージョンがアップロードされています。

(そのまま And the band played onで検索すれば1発で出てきます。いつまであるか分からないので、ご覧になるならお早めにどうぞ)

 

では、今回はここまで。失礼いたします。

カルネアデスの舟板

この言葉はご存知の方が多いと思います。いわゆる「緊急避難」ですね。

この使い古された言葉から、私はよく2つのことを考えます。

まず、1組の熱烈に愛し合う男女がいたとします。その2人が旅行先かどこかでこのような状況に陥ったらどうか?

この場合「2人で力を合わせて奇跡的に両者助かり、より愛を深めあう」とか「賢明な2人は、前もってそういう状況を避けた」といったようなハリウッドムービー的回答は認めないものとすると、考えられる選択肢は3つあります。

1)男が助かり、彼女は死ぬ。

2)女が助かり、彼氏は死ぬ。

3)「相死すとも、2人の愛は永遠である」と抱き合って、2人とも死ぬ。

 

それぞれに背景となる心理は様々に考えられます。

1)も2)も、助かった方が本当に助かりたかったかは様々なバリエーションが考えられる。

まあ単純に助かった方が「いくら愛しているといっても、代わりに死ぬほどあんたのこと好きじゃねーよ」というある意味至極当たり前の心理である場合は話が早いのですが、1)2)ともに「自分の命よりも、心から愛する相手の命を惜しんで、自ら身を引いた」という場合はどうなんでしょう。これ、ちょっと映画の「タイタニック」の最後のシーンに似たシチュエーションですが、現世は映画ではありませんから助かった方がその後ずっと彼氏(彼女)のことを思い続けているかは、全くもって分かりません。それでもおそらく死んでいく方は「満足して死んでいっている」はずで、何故ならばそれは限定された状況であるとはいえ、自分の願望が通ったままこの世を去るわけですから。(まあ「これで良いんだ」と自分の生への執着と懸命に闘いながら、これを抑えつけて死んでいくというのが実態かもしれませんが)

いずれにせよ、ここには「死をも超える愛情」が存在する可能性があります。

3)もまたいくつかシチュエーション分けができます。

鍵は年齢で、まあ長年連れ添った老夫婦ならこういうのもありかなと思いますが、年の差がある場合には議論の種になりそうです。通常は若い方を生かすんでしょうが、逆だったら世間からいろいろ言われるかもしれません。(「若く将来のある者を道連れにした」とか。まあこれは程度に差こそあれ、どのケースでも生き残った者が背負う十字架のようなものでしょう)

1番の悲劇は「互いに争って板に捕まろうとし、双方が死ぬ」というケースですが、極限状況ではこのパターンが結構多いかもしれません。恋人同士でなければ、まず確実にこのパターンになると思われます。

 

とまあある面気楽な分析をしているわけですが、ここで次の考えに進みます。

それは言うまでもなく「自分だったらどうするか?」ということです。

相手を見捨ててでも助かろうとするか。はいどうぞと譲るか・・・

これが、いくら考えてもまだわたしには結論が出ていません。

そもそもそういう状況に置かれたことがないということもありますが、自分の本性が分かりきっていないということでしょう。

願望としては、他人に譲っても良いと思える自分でありたいと思っているのですが・・・

でも、そういうことに直面する世界というのは、意外に近くにあるのかもしれないとも思うのです。特に最近。

 

では、今回はここまで。

拙文にお付き合いくださりありがとうございました。

 

文化の衰退、文明の死

なんかブログ開設以来暗めの話題が多くなっちゃってますが、多分そういう世の中なのだろうと、自分で自分を納得させています。

元来私の考えることは大袈裟なことになりやすいというか、いわゆる大人の思考でない0か1かといった傾向が強いようで、昔はよく母親に注意されたものです。

まあその母親もすでに天国の住人なので、逆に今の世界を見ることなく逝けて幸せだったなという思いも少しあります。

 

昨今の情勢からつらつら考えるに、下手をするとこの世から文化、文明、優れた芸術、純粋な学問といった「ある面、お金に換えられないもの」が絶滅もしくは瀕死の状態になってしまうのではないかと思っています。

「それこそ大袈裟な考えだ。現にコンサートも、ライブも、イベントも開かれているし、美術館や映画館も以前のように営業している。お前の言うようなことは起こり得ない」と言う声も聞こえてきそうです。

いや、そうであるなら私も嬉しいんですけどね。一応音楽も映画も好きですし、今でもそういうものに触れるのがささやかな楽しみでもあるのですから。

でも無茶な反論を承知で、敢えてそう言うご意見をお持ちの方にお聞きしたいのです。

「それは今後ますます発展していくと思われますか?」と。

規模を小さくして、細々と続いていくことはあるでしょう。でもそういう事態になったら、確実に質は低下するでしょう。だって、稼ぎが減っていくのは目に見えてますから。

 

もっとも、こういう考え方には世代間の差というものがあるとは思います。

過去のものがいくら優れていたといっても現在それが存在しない、もしくは存在しても地中に埋もれたような状態になっている以上、今の時代において「良いもの」を享受するためにはその時のベスト(もしくはその時ベターとされているもの)を選択するしかないわけです。さらに、そういった分野の勉強をしようという者は、やはりその時点で得られる良いものを手本にするしかない。

単純な話、現代の若手音楽ファンに「原子心母」とか「クリムゾン・キングとELP」、「リリー・クラウスのモノラル録音のモーツァルト」とか「ワルター大地の歌 フェリアー独唱のもの」とか言っても話の通じる人はそう多くないのと同じことです。

これは多分歴史を通じての真理で、「昔のものは昔のもの」なのです。

但し、ここが重要なのですがこれは質の変化もしくは向上とは無関係だということは、言うまでもありません。

 

さて、問題は実のところこの先です。

今の日本(多分、世界も含めて)は急速にその色というか、将来に向かう力を失ってきていると思うのです。

日本でいえばコロナの緊急事態宣言からマスク、ワクチン接種と続く大きな流れにみんな疲れている。新しいことを考えるより今日を生きることに必死になっている。まあかくいう私もその1人ですが、いわゆる「心の余裕」を持ちにくい世の中になってきていますよね。

 

「じゃどうすれば良いんだ?こちとら必死で生きてるんで、そんなことは少しでも楽になってから考えるさ」という考えに落ち着かざるを得ないのかもしれません。

それも仕方ないですが、私としては極めてちっぽけではあっても「自分が自分らしくいられる場」が必要と思うのです。

 

多分、唐突にこのブログを始めたのもそういう理由からでしょう。

 

もしご興味をお持ちくださいましたら、今後ともよろしくお願いいたします。

人間は進化してるの?

よく「人類の進化発展」というような呪文めいた言葉を聞きますが、本当に人間って生物の個体として進化してるんでしょうか?文化や文明も過去より優れたものになってきているんでしょうか?

確かに科学は進歩し、それを駆使する人間は過去に比べて圧倒的な便利さとある意味での豊かさ、また力を手に入れました。

今では自分たちの作り出した科学の成果によって、自分たちが滅びるかもしれないという笑えない状態に至っています。

武器の発達なんて恐ろしいほどで、最近では無人のドローン、水中核兵器、EMP攻撃なんてものも普通に会話に出てきます。

YouTubeに沢山投稿されてますが、核兵器自体すでに広島に投下された原爆(憎むべきリトルボーイ)の2000倍の威力とか。国が1つ吹っ飛ぶものが、いつでもぶっ放せる状態で世界のあちこちにある。これはもう狂気ですよ。

かというとコロナなんていう予期しなかった伝染病が蔓延したり、その副作用で亡くなる人が沢山出たりと、もしかしたら我々は一見今の便利で快適な生活を得るために、大事な何かを失っているんじゃないかと思う今日このごろです。

さて、ここから先は音楽に関しての話です。

お世話になっていた方で蓄音機(ご存知ですよね。電気を使わずにSP 盤というレコードを回し、主として竹などでできた針で再生する、最初期のオーディオ装置です)マニアの方がおられまして、二度ほどお宅にお邪魔して貴重な音源を聴かせていただいたことがあります。凄いんです。ステレオでこそありませんが、その音のリアルなことたるや。

まあ蓄音機自体いわゆるアンティークで高品質のものが良い状態で残っているということはなかなかないようですが、その方がお持ちのセットは素晴らしいものだったせいもあって、正直なところ打ちのめされたような気分で帰宅したのを覚えています。

実はショック受けたというのには2つ理由があって、良い状態の蓄音機の凄さと共に、それで再生される音楽の、演奏家のあまりの上手さに驚いたものでした。

中には無名の人もいるんですが、信じられないほど上手い。現代のプロではまず敵わないレベル。

聴き終わってからその方といろいろお話をしたのですが、2人で意見が一致したのは「多分、第二次世界大戦で全てが失われた」という結論でした。

音楽好きの方は「モーツァルトの手紙」をお読みになったことがあると思いますが、あの中にモーツァルト自身が採譜したという譜面が載っていますよね。非常に上手な女性歌手がいて、その歌手が信じられないほど高い音まできれいに歌ったので採譜したらしいのですが、これって、現代では演奏不可能とされてるんですよね。

しかし蓄音機で昔の歌手の信じられない技術に実際に接してみると、あれは実話だろうと思えてきます。 

もう1つ、やはり音楽に詳しい先生にいろいろ聴かせていただいたところ、結論として「ヨーロッパのオーケストラが本当に凄かったのは1950年代から1960年代初めにかけてで、それは大戦前からの奏者がいたからだ」ということを仰っていました。

他にも楽器の製作法で今では失われた技術など、人間は得たものと失ったもの、どちらが多いんだろうなどと考えてしまいました。

戦争は尊い人命だけでなく、貴重な文化や文化的遺物も破壊します。

 

まあ、人間ってそういうものかもしれないんですが・・・

 

 

 

私はどこから来たのか?

誰でも思うことでしょうけど、人間ってどうやって誕生したんでしょう?

一般に教えられるのは進化論ですね。あの、人間はアミノ酸の小さな塊からアメーバみたいなものを経て進化してきたって話。正直なところ、もしこの拙文をお読みの方がおられたら、そんな説明信じられますか?

私が特にその「信じられない」ということの根拠はいろいろあるのですが、まず挙げたいのはDNAの持つ二重螺旋構造です。これは明らかにプログラムでして、知性のあるものが設計することなく、偶然にできたということにはどうしても納得できません。

「じゃ、誰がやったんだ?」と突っ込まれるとその先の回答は曖昧になってしまうのですが、宇宙か、地底か、はたまた別の次元かは不明ですが、我々人間よりはるかに賢い何者かによって造られたというのが、現在の私の考えです。

ずっとずっと昔にはそういった「創造主」についての情報も多く残っていたと思います。そういう存在を人は「神」と呼んできたのでしょう。

こういう想像を始めると先はどんどんついてくるもので、よく聞く「宇宙人地球訪問説」とか「古代巨人族説」とか、「地底世界存在説」とか、どんどん話は広がっていきます。

こういう話は一般にオカルトと言われますが、オカルトというものにも一部(或いはそれ以上)の真実はあると私は思っていまして、一考には値すると思っています。

人間の起源を考えると、不思議なことだらけです。

そのほんの一部だけでも、死ぬまでに知りたいと思う今日このごろです。

無理でしょうけど(苦笑)

 

では、雑談失礼。

New Worldにて

いきなりNew Worldとはなんじゃ?と思われるかもしれませんが、これは最近の私の偽らざる日常感覚です。

「コロナも一応5類に下がったし、増税だのいろいろ面倒なことは将来ありそうだけど、とりあえず世間はまた以前のように動き出しているではないか?」と思われる方も多いかもしれませんが、私の意見というか感覚(まあ、どこまで当てになるか分かりませんが)はまるで違っているのですね。

どう違うかというと「日本に元気がなくなった」ということに尽きます。

「私は以前と変わらずに会社(学校)に行ってるけど、周囲も含めて生活に大きな変化はないよ」という方も多いかもしれません。

人間の生活圏と、世界認識というのは(個人差はありますが)意外に狭いものだというのが私の持論でして、毎日会社との往復をしているような生活を送っていると(それは、生きるために仕方のないことですけど)、意外に社会の全体像というのは見えてこない。

(もちろん他人様のことばかり言えるわけでなく、私もそうですが)

テレビ、新聞、ネット、個人のネットワークなどで情報を補完していくわけですが、今のテレビや新聞というのはあまりアテにならない。

特に海外の状況なんて皆目分からない。そもそも遠いところの話ですし。

一例を挙げればウクライナ戦争ですが、これって単に「侵攻したロシアが悪い」ということで済ませていいのか?拙い英語力で海外の情報なんかを当たってみると、ご存知の方には今更の話ですが、実に複雑ですよね。

そもそも2014年、或いはもっと前に遡って原因がある。まあ、この話はこれくらいにしときますが、これがもし台湾有事だったらこれくらいにしとくなんて言っていられない。日本の安全保障に関わる問題になってくるのですから。

私は戦争を憎みますが、自国が明らかに侵略されそうな時、或いは攻撃された時にどうするかということを考えずにはいられません。

「それでも戦争には反対する」とか「そういう時のために外交があるのだ」という意見もありましょうが、今はミサイル1発ですからね。

 

すみません。話がだいぶ逸れました。

コロナの後遺症といい、最近流行しているワケの分からん感染症といい、世界も日本も2019年とは全く違う状態になっている。

そして、そのような状況を積極的に変えていこうという力が今の日本からは感じられない。これが今後、どうなっていくのだろうということが気がかりな今日この頃です。

 

とりとめない話を失礼。皆様もお元気でお過ごしくださいますよう。

 

そんなことを思う今日この頃です。

ブログ開設のご挨拶

はじめまして。

tokinotabitoと申します。昭和生まれの男性です。

趣味というと音楽、映画、読書、将棋などですがいずれもぼちぼちといったところです。

それでも、何か言いたいことができた時に表現できる場があってもいいなという思いで

ブログを始めることにしました。

話題は上にあげた趣味に拘らないつもりです。

どの程度のペースで更新していけるかまだ分かりませんが、どうぞよろしくお願いします。